嶽本野ばら「通り魔」

少し前に読んだ本はミステリーで、それは社会派ミステリーと言えるようなストーリーでした。今ではかなり認知されている発達障害、コミュニケーションをうまく取れない類の、知能に問題はないけれど、周りの人々にそういった問題だと思われることも含めて誤解を与えてしまう発達障害を持った男性が主人公でした。

主人公は昭和36年生まれで私と同い年の設定でしたので、当時の小学校は、中学校は、確かにこのような子供はこういう扱いを受けてしまっていたと読んでいても実感でき、その結果が悲惨な事件へとつながっていく悲しいストーリーでした。

※芦沢央「夜の道標」当時を振り返りながら読んだ本

そして今回読んだ本は主人公がコミュニケーション障害、人とコミュニケーションをとることがひどく苦手な、緊張し過ぎたり言葉が出てこないといった真面目でおとなしい少年。

前回読んだ本は昭和の時代、周りの理解だってないしそもそもそのような発達障害がほとんど知られていない時代。でも、今回の本は今。様々な発達障害について知られてきているし、主人公を取り巻く周りの人々も言葉としては知っています。

ならば、昭和の時代のようなかかわる人からの大きな誤解もないし、事態はだいぶ良くなっているはずと思いたいところですが、昭和の時代よりさらにひどくなっているとも言える、、、主人公が追い詰められていく過程が読んでいて辛過ぎる。

これは小説だが、小説以上に切実な小説だ!

これは小説ですが、小説以上に切実な小説です!!

ーーたとえば、食べるために働いたことのない2世・3世の議員に、こんな事態が想像できるだろうか?
生活できないことは、こんな現実があっても「自己責任」なのか?
小さな障害はあるものの、善良だった少年が残虐な凶行に及んだのは、彼だけの罪と言えるのか?
社会が犯している「弱い者いじめ」は、人間としての「罪」ではないのか?

内容紹介(出版社より)

主人公の少年が、自分が人とかかわることがひどく苦手であり、言葉がなかなか出ないため人に誤解を与えることは子供のころから充分すぎるほどに自覚し、1人で黙々とまじめに取り組めばよいタイプの仕事であれば、単純作業のみであっても、人が嫌がるような仕事であっても、時給が低くとも、まじめに誠実に取り組む、働く意欲はあり、考える力もあるだけに読み進むほどに苦しい。

発達障害について知られるようになったとしても、得意不得意分野を考慮、特に絶対にそれだけは無理というウイークポイント、そこが障害と診断されるほどに弱いわけなので、そこを考慮した仕事につけるなんらかのサポートがない限り、人々に知られるようになったところでどうにもならないと思いました。

やり切れない気持ちになる本でした。
この前に読んだ凄まじい犯罪と暴力と恐ろしすぎる宗教儀式の描写ぎっしりの「テスカトリポカ」のほうが気持ち的には楽でした。(悪人同士の話だったし)
※佐藤究「テスカトリポカ」凄まじい本を読んだ

「テスカトリポカ」を読んだ次の日に読んだこの本、主人公のような状況でも「日本だと死ぬことはない」という言葉が出てきます。確かにテスカトリポカのような環境では生きていくことすら難しい。でも、安全が守られているだけで生きていけるというわけではない、精神的なことは人にとっては非常に大きい問題ですから、読んでいて暗澹たる気持ちになるのは「通り魔」のほうでした。